2007年8月27日月曜日

携帯用ルーペ


東急ハンズのバーゲンセールに行ったのだけど、お目当ての品が売り切れてしまっていてがっかりである。あらかじめ電話で在庫を確認していたのだが、一足違いで出遅れてしまった様子。そのまま帰るのは癪だったので、気を取り直して閉店間際まで売り場を見て回った。

そこで見つけたのが、この小型ルーペ。クレジットカード大のコンパクトさで、しかも明るいLEDランプが装着されている。ケースからレンズを引き出すと、自動的に点灯するというスマートな仕組み。白色灯なので、細かい文字がくっきりと浮き上がって見える。

早速、持ち歩いて使ってみたが、それはもう快適快適。照明を絞ったカフェなどで文字が読みにくい時に、これを胸ポケットからひょいと取り出せば、たちどころにイライラは解消。これからは照明のある方向に本を向けて、四苦八苦する不細工な様子を見られずに済むのだ。バーゲン価格でなかったのが残念だが、ずっとこんなルーペが欲しかったので満足している。

easyPOCKET

2007年8月21日火曜日

オトコの日傘

これだけ暑い夏が毎年やって来るようだと、服装だって大胆に変えないと愚かだ。今日、JTBの営業所に行ったら、男性職員がアロハシャツのようなものを着ていて、とても羨ましく感じた。必ずしも似合っているとは言い難かったが、明確な合理性があるため、見ていて少しもだらけているという印象を受けなかった。むしろ、冷房を効かせてスーツにネクタイ締めて仕事している方が、社会性を疑われるような時代になりつつあると思う。

わたしの理想は、はっきりとしている。昭和30年代の犯罪映画に出て来る、あの夏場の聞き込みをやっている刑事の衣装だ。もちろん開襟シャツ、腰には日本手ぬぐいぶら下げて、扇子を忙しく動かしながら、仕事の途中で山盛りのかき氷を食べているタフガイ。例えばだみ声の藤岡重慶みたいな男が似合いそうな格好か。カンカン帽に絽の着物というのも憧れるが、およそ堅気と受け取ってもらえそうにないので、このハードルは非常に高い。いまのところは、休日にパナマ帽をかぶって外出するのが精一杯だが、せめてそれ以外でも普通に帽子をかぶれる時代がくればいいと思っている。

ところがだ、世の中にはオトコの日傘を普及させようとしている人がいるのだから恐れ入る。たとえばスーツ姿に帽子をかぶっただけでも、禿げてるのかしらと邪推されるのに、もし日傘を差そうものなら「どこの人?」と思われるのがオチである。もちろん機能的には、盛夏に日傘はきわめて理に叶っているし、撥水性があれば突然の夕立にも対応できる。どっちも有りだとした時、わたしならば帽子より日傘を選ぶかもしれない。だけど、現実問題として、日傘を差して仕事に行くなんて、そうとうな割り切りが必要だろう。政府主導で、いっそのこと内閣全員で日傘を差して、恥ずかしくないオトコの日傘を宣伝するのもいいかもしれない(もちろん内閣支持率は微妙だろうが)。

2007年8月20日月曜日

夏の相棒


朝一番の仕事は、家中の窓を全開にして、中にこもった熱気を外に出す。その間にバケツで水を汲み、外の植物たちのご機嫌伺いをする。土の乾燥具合を見たり、葉や茎に害虫が取り付いていないかを調べ、目に付いたものは片端から駆除する。彼らなりに懸命に擬態しているのに、早朝から運の悪い虫である。

この作業が一段落したら、ホーズの1ガロン入りジョウロで水を遣る。最初は先端の穴あきを外して、木々の根元に素早く水をまわす。一通り終わったら、今度は肩の高さまでジョウロを持ち上げ、埃を被った葉を雨で洗うように掛けてやる。疲れきった葉が生気を取り戻し、艶々と光ってくる。ハーブたちの強い香りが、朝の眠気を吹き飛ばす。これがガーデニングのささやかな喜びというものだ。

夏の朝は毎日欠かさず、この作業を繰り返す。もちろん家を空けることはできない。3箇所のヴェランダに散在するバラや観葉植物、いまだに名を覚えられない木々の鉢、1日だって目を離せない草花たちに酷暑を乗り切らせなくてはならないからだ。バケツの水を何杯も汲んできて、無骨で重いイギリス製のジョウロを振り回すのは、やっぱりオヤジの仕事。使い始めて10数年になるがびくともしない、夏の仕事の実に頼もしい相棒なのである。

2007年8月19日日曜日

地球温暖化と暮らし方

今朝の朝刊で国連事務総長が、「重要な問題は、地球の温暖化だ」と答えていた。本来の役割である国際紛争の解決ではなく、環境問題を真っ先に出してきたことに、この問題の深刻さを感じる。もちろん、地球の温暖化は国際紛争の端緒になるということも含んでのことだろうが。そしてこの問題は、個々人の生活にも深刻な影響をもたらすので、将来の生活を考える上で避けて通るわけにはいかないのである。

思うに地球温暖化の問題は、これをありのままの状態で個人の問題として扱うには、あまりにも漠然としているため政治的なスローガンの餌食となりやすい。何しろ危機的な状況というものは、そこから生じる不安を利用して利益を得ようとする政治屋にとって、最高の稼ぎ時だからである。だからこそ、それを個人の問題とする時は、自分自身の具体的な生活スタイルへの選択の問題に分解して考える必要がある。

そのような視点で何かないかと探してみたら、新刊書で「サヴァイヴ!南国日本」が引っかかった。著者の高城剛とわたしとは、同世代ながらもまったく異なる人生を送っている。人生観や価値観はもとより、生活スタイルや食事や音楽の趣味まで、見事なくらい重なりがない。しかしただ一点、環境問題については、なぜか同じ結論である。西回りと東回りに歩き始めた旅行者が、たどり着いた場所が同じだったという感じなのだ。

ざっくりとまとめると、日本の亜熱帯化は不可避であり、私たちはその変化にドラスティックな対応をしなくてはならない。温暖化の対応は国際的な競争になっている。日本は地理的に、経済的にきわめて有利な位置にあるので、一気に舵を切って世界をリードすることで国際的な影響力を増大させなくてはならない。そして、その主張の背景には、急速なパワーシフトによって傾きつつある日本に対する、強い焦燥感を感じるのである。

著者はいう。急速に悪化する地球環境に対応するには、スピーディーかつパワフルに生活革命を実践して、最適なバランス点を発見しなくてはならない。そう、刻々と亜熱帯化していく生活環境に対して、個々人がどうすれば快適な生活を送れるのかを、まじめに考えなくてはならない時が到来しているのだ。そして著者の選択は、コンビニに行く回数を減らし、クルマに乗る日を決め、頻繁な「お取り寄せ」をやめ、堆積した膨大なモノを処分して、生活の拠点を変えることだった。

これまで著者とは反対の生活を送ってきた人たちからすると、何を今さらという感想を持つだろう。しかし、意識的にこれまでの生活とは縁を切って、大きく生活スタイルを変化させた点はやはり評価できる。そして、質素な生活はまっぴらごめん、生活をより良くするためのバージョンアップだとする積極性には強く共感する。十分すぎるほど物質文明の恩恵に浴してきた人たちに対して、より楽しい贅沢をするための選択肢として、環境対応型ラグジュアリーを提示することは、生活革命を促すためにとても大切なことだからだ。

わたしのばあいは、そもそもが新陳代謝の少ない暮しtをしているので、これ以上モノを少なくするとか、買い物を止めるとかする必要はないが、ただ今のクルマをどうするかでずっと悩んでいる。古いクルマなので燃費が悪く、環境負荷を考えるとそのままにしておくことは良くないだろうし、かといって買い替えるのはもっと良くないことかと、いまだに最適なバランス点を見いだせない。

本書で気になったのは、海外のお金持ちが日本に注目しているという点。というのも豊かな森林や水が、温暖化や砂漠化で世界的に希少資源となっているため。最近も友人からアジアの某財閥オーナーが、札幌に頻繁に通っているという話を聞いたばかり。すでに兆しは出ているが、将来どこで仕事をするかを考えたとき、海外ばかりがお金儲けの場所ではないということだ。

2007年8月17日金曜日

オンリー・イエスタデイ


マネーの世界に吹雪が吹き荒れている。信用収縮を止めるために、各国の中央銀行は9.11以来の大掛かりな資金供給を続けているという。政府は、実体経済はしっかりしているので大したことにはならんでしょ、とアナウンスしているが、それはちょっと信用できないのだ。すでに京という単位にまで膨張したマネーが瞬時に動くような時代には、マネーが実体経済に及ぼす影響は計り知れないはずだから。

マネーの本質は、それ自身が最大限に増殖しようとする貪欲さと、損失を恐れる恐怖にある。それはまさに人間の本性の反映なので、マネーは楽観と悲観を振り子のように揺れ動く。これまではマネーのもたらす軋みを、楽観が様々な理屈を付けて無視して来た。しかしこれからは、実体経済を無視した悲観が世界を覆うかもしれない。そしていつの時代だって、お金に縁のない庶民の生活までも容赦なく痛めつけるのが、マネーに支配される世界の掟なのである。

世界恐慌は暗黒の木曜日から始まったが、本当に大変な状況になったのはそれからずっと後だったという。つまり楽観と悲観を繰り返しながら、誰も想像しなかった最悪の状況に転落していったのだ。そしてその時の悲惨な体験は、経済の世界ではむろんのこと、映画や文学などで戒めの物語として繰り返し語られてきが、今ではそういう物語を見ることもなくなった。

「オンリー・イエスタデイ—1920年代・アメリカ」

2007年8月15日水曜日

「住宅喪失」

せっかくの夏休みだし、どこにも出かけないのだから、せめて楽しいことして過ごしたいと思いながらも、きょうもまた憂鬱な本を読み続けている。このところサブプライムローン絡みのクレジットクランチに関する報道が頻繁になされているが、結局はアメリカの景気後退と中国バブルの破裂のワンセットで、日本の景気回復も終了ということになるのだろう。そこでアメリカの住宅ローンのことを調べていたが、肝心の日本の住宅ローンについて無知だったので、我が国の持ち家事情を知るために手に取った本が「住宅喪失」である。家を建てることを計画した際、土地や住宅そのものについては知識を入れたが、社会問題としての居住についてはすっぽりと抜け落ちていたので、読後のインパクトはそれなりに強烈であった。

わかったことは、またしても企業の利益を最大化するため人々の幸せを軽視する、この国の酷薄な政策が、個人の住宅事情を悪化させているという事実であった。長期的な景気低迷とデフレが続いて政府の持ち家政策が破綻し、企業の負担を軽くするため正規就業者を切り捨て、未来の展望が描けない派遣労働者中心の雇用形態に転換したあげく、ついて来れない人々は容赦なく切り捨てるという実に非人間的な流れが出来上がっているのだ。景気は徐々に回復しているといわれるが、リストラや収入減少による住宅ローン破綻が増加している。そして破産宣告を受けて我が家を失った人たちが、簡単に賃貸住宅に引っ越せるかというとそうではない。破産者リストに載った人たちの情報は不動産屋に回り、いざ家を借りようとすると破産を理由に断られるというのだ。

そして本は、ローン破綻の引き金となっている、日本の雇用環境の変化を描く。「労働者のニーズに応じた多様な雇用形態」を実現するため、政府お雇いの口入れ屋や金融業者、不動産屋が力を合わせて作ったのが雇用流動化政策である。正社員を簡単に切り捨てることができれば、時代の先頭を走る口入れ屋のオーナーたちはさぞ忙しいことだろう。そして固定費が削減され身軽になった企業を高値で売却できれば、金融業者もさぞ満足だろう。わたしの覚えている限り、これほどミエミエの人選で内閣の諮問機関が構成されたのはちょっと例がなかったように思う。ページに印刷されている名簿を、しっかりと頭に入れてほしいのだ。

話は終わらない。集合住宅の建替え決議の成立要件(区分所有法)をめぐり、法制審議会に業界の頭目が乗り込んで、決議要件を所有者の5分の4の賛成で済むようにしてしまったことである。当初は築30年後という要件が検討されていたようだが、「所有者は一番いいときに買い替えるようにすべきだ」という投機屋の論理で押し切られてしまったらしい。つまり、開発対象の地域内にあるマンションが邪魔になったとして、5分の4の区分所有権を取得すれば、いくら他の住民が反対しても「解体費用も負担させて」マンションから追い出すことができるのである。そして追い出された人が仮に高齢者だとすると、民間アパートは当然借りれないし、競争率の高い公営住宅への入居は不可能となる。住宅困窮者に何の手当もないのが不思議だが、再開発業者の仕事がやりやすくなるのは不思議でない。

まとめると、雇用と住宅は一体の政策課題。政府は高度な専門知識を有する管理者を正規就業者とし、それ以外の事務職や技術者は派遣労働者、残りの労働者は日雇いで賄うという就労形態を考えている。この部分は、先日読んだ経済書にも指摘してあったこと。そしてこれらの階層に対応して、従来の持ち家政策は、「より柔軟な」住宅政策に転換している最中なのである。そこには居住権が人権であるという思考は、ひとかけらも入っていない。もし憲法を改正するなら、居住権の保障を独立した明文規定とすることを、取引材料としてでも要求したいところである。

2007年8月14日火曜日

ニューポートで避暑



めげてしまうくらい暑い日が続くので、今夜はニューポートに避暑に行ってきます。ちょうど今ジャズの野外コンサートが開かれていて、アニタ姐さんのチャーミングで切れ味のいい歌声が聴けるのです。またセロニアス・モンクの生演奏も聞き逃せません。それから夜の部のダイナ姐さんのソウルフルなステージも楽しみです。

ステージばかりでなく、周囲の風景やコンサートに来ている女性たちの、華やかで寛いだ雰囲気もとても素敵ですよ。やっぱり遊ぶ時は、ファッションにも気を遣って、きっちりと楽しまなくては面白くないですし。よろしければご一緒に。あっ、帽子とサングラス、缶ビールをお忘れなく。

「真夏の夜のジャズ」----- これがあればYouTubeのお世話にならないで済むんですが。

「割り箸はもったいない?」

「割り箸はもったいない?」 田中淳夫

読み終わって一番感じたことは、環境問題は単純でないということ。割り箸は使い捨てだから資源の浪費だ、だから環境に良くないという論理の跳躍をいとも簡単に許すのが環境議論の特徴である。本書はその点に着目して、割り箸の歴史、業界の現在、林業の構造、森林保護のあり方など広く目配りしながら、その論理の粗雑さを丁寧に正している。

論点が多岐にわたるため端折って書かざるを得ないが、割り箸は環境問題としてはシロ。現在は中国からの輸入に頼っているが、自然林を伐採しているのではなく、成長の早い木を植林したものから作られている。そして中国における材木の全消費量の内、日本向けの割り箸が占めるのは0.09パーセント。環境破壊どころか、むしろ現地の雇用に貢献している。そして中国ではじゃんじゃん森林が減少しているような印象があるが、実態はその逆で人工林は急速に増えている。そして現在では日本が木材を輸出して、中国で割り箸に加工してもらい、日本で高級割り箸として使われているとう例もある。

おそらく、アンチ割り箸派のこだわりは、使い捨てにするという点だが、これはほぼ感情論の領域である。どんなものにでも存在理由があり、プラス面とマイナス面が同居しているものだ。それが極端にアンバランスでない限り、社会的に許容できるのは当たり前である。

環境保護の見地からは森林を維持、拡大するのは大切なことだ。そして人工林は適切に運営されることで自然林以上に環境保全に役立つことが証明されている。しかし林業はきわめて投資期間が長く、経営を成り立たせるためには、短期的で継続的な収益源も不可欠である。そこで建築資材のような大きな用途だけでなく、日用品などの小さな用途も欠かせない。ところが日本では戦後、その日用品の素材が木材以外に移ったことと、木材が価格競争力をなくしたため自国の林業が衰退してしまったのである。

そして日本の森林問題と世界の場合はまったく話が違っていて、世界は乱伐が問題になっているのに、日本は増えた森林が伐採されないことが問題となっている。つまり日本の森林は利用されないことで「緑の砂漠」となって、かえって環境に悪い影響を与えているということなのだ。だから日本の森林保護のために積極的に木製品を利用して、その中の一つとして割り箸を使うということもアリなのである。

「割り箸はもったいないか?」と問われれば、わたしは、やはりもったいないと思う。わたし自身はモノを捨てられないたちなので、必要なとき以外割り箸は使わないし、上等の割り箸などは持ち帰って更に使うが、だからといってそれが社会的に「正しい」行為だとは思っていなかった。割り箸を使う状況があればそれを楽しめば良いし、それが嫌なら割り箸を使わずにいる、ただそれだけの個人な生活習慣に過ぎない。これから、それを自信を持って言えるようになったのは収穫である。本書は日常生活の素朴な感情論を超えて、環境問題の適切な考え方を示した点で、実に示唆に富む本だと思う。

2007年8月12日日曜日

「現代の貧困」

将来の社会を考えるには、言うまでもなく現状認識が重要である。現在は小さく見えることでも、いずれ社会に大きなインパクトをもたらす要素になるかもしれない。そこで今話題の社会格差を考える手がかりとして、岩田正美の「現代の貧困」を読んでみた。

大衆メディアでは格差論花盛りといった状況だが、本当のところはどのような状況だろうかという疑問について、きわめてまじめに答えている本である。しかし、これまで貧困の問題が社会的に注目されてこなかったという経緯、貧困の研究そのものが困難を伴うものであること、新書という性質上コンパクトに書かなくてはならないという要請等、様々な制約が加わっていることから、読者にとっては本書を一読して全体像を飲み込むのは難しい。従って、断片的なメモとして記録したい。

押さえておくべきは、貧困は「あってはならない状況」の発見という、社会的認知の問題だということ。貧困はあったりなかったりするものでなく、いつの時代でも貧困は存在する。-------- 社会の成熟レベルが低ければ、あるはずの貧困も見えなくなるという仕組み。一時、一億総中流というスローガンを無批判に垂れ流していた自称社会の木鐸のレベルが問われそうだ。

貧困層はいつも満員の乗り合いバスのようなもの。多くの乗客は乗り降りするものの、ずっとバスに乗り続けなくてはならない人たちもいる。そのような持続的、慢性的貧困層の固定化が進行しているのが現在の問題。学歴、雇用、家族の3つの属性において、社会的に不利な人々が貧困からの脱出を困難にしている。------------ とりわけ十分な高等専門教育を受けているか否かが、貧困と無縁でいるかどうかの分水嶺になっている事実に驚愕する。これからそうなると思っていたら、すでにそうだったということに。

日本の福祉政策は高等専門教育を受けた、既婚、子持ちサラリーマン家庭というモデルに有利に設計されていて、あってはならない状況に置かれた不利な人々の福祉をカバーするものでないということ。------------ そういえば、社会主義には公的に貧困は存在しないのだったね、という悪口は兎も角。生活保護の母子加算制度が廃止されたとは、迂闊にも知らなかった。もっとも声の小さく、弱い立場の人々に負担を回すとはあまりに惨い政策だ。

この国の少子化問題というのは、豊かさ故の問題というより、単純に貧困の問題とするのが素直かも。婚姻にとらわれず子供の福祉を充実させた国々で出生率が上昇しているのは、その証拠になるのでは。また高等教育機関への進学の機会平等を保証し、できるだけ高度な専門知識を習得させるのが、もっとも効果的な貧困対策になるはずだ。------ 欧州の福祉政策は、豊かだったから出来たのではなく、適切な福祉政策を講じたからこそ豊かになったと考えるのが正解?

貧困はあらゆるものを毀損する。それは個人の問題にとどまらず、社会の連帯を弱め、ひいては国力を衰退させることにつながる。素朴な自己責任論や公平論に振り回されず、長期的な国家戦略として冷静に貧困問題の解決を図る必要がある所以。結局は国民を啓蒙して、従来の内需拡大策より弱者の福祉を充実させた方が、安全で豊かな社会を作れると納得させなくてはならない。そのためには、人々がじっくりと判断できる、落ち着いた文化環境が必要だろうが、だがその辺にまったく期待できないのが辛い点である。つまり私たちの将来は、私たちの民度で決まるというありふれたオチとなる。

2007年8月7日火曜日

「人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか」

5月に予約を入れた本、「人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか」がようやく手に入った。蔵書数は十分なのに、どこの図書館でも予約待ちが多く、近隣4カ所に又掛けしてやっとこさ読むことができた。地味な本だからかメディアでは話題にならないけれど、やっぱり気になる人はたくさんいるのだ。

本書は、現代社会のありようから湧き上がる多くの「なぜ」を、歴史や経済の動きから統一的に読み解くことを試みている。トヨタが世界一の自動車会社になったにもかかわらず、国内の自動車販売は減少するばかりなのはなぜ。都心には高級ホテルやブランドショップが次々と誕生しているのに、全国的には消費の盛り上がりは感じられないのはなぜ。バブル崩壊から以降、懸命に努力して産業を立て直し、全世界から貿易黒字を掻き集めているこの国が、毎年のように経済的地位を低下させ続けているのはなぜ。

それは、世界のシステムが、国民国家の時代から「帝国」の時代へ変化してしまったからだという。近代は国民国家、すなわち町の旦那衆によって運営されていたのが、21世紀になってみると、数カ国の大旦那によって仕切られる世界になってしまったということだ。とすると、日本のような辺境の国は、否応なく世界のサブシステムに込み入れられることになるわけ。国と国の関係も、主権国家平等の原則からむき出しの実力関係に転化しても不思議でない。

そして他方、マネーや企業は国境を越えて、全世界を一つの市場として活動するようになった。企業活動で使われる言語も、統一されつつある。だから、トヨタのようなグローバル企業はその本籍地とは関係なく、独立した経済主体として振る舞う必要がある。ということは、政府が企業活動をコントロールすることはきわめて限定的となり、政府の統治能力が低下する結果となる。

そうなってくると、大きな流れとして、政治が国民の面倒をみる能力や動機が失われ、政治権力の正当性に疑念が生じてくる。もはや政治部門は有能な人材を獲得することは困難になるだろうし、結果としてますます政治は弱体化するだろう。つまり福祉国家という大きな国家の理念は、前世紀に咲いた徒花として忘れ去られることになりそうだ。ソビエト連邦崩壊のきっかけは、チェルノブイリ原発事故だった。アメリカとの冷たい戦争に敗れたソ連はペレストロイカを進める過程で政治権力を維持できなくなり、巨大な軍事力を抱えたまま最後には消滅してしまった。20世紀のあの国の物語が、21世紀の我が国の物語とはならないと、いったい誰が否定できるだろうか。

とても気になった記述があった。新しい帝国の時代は、希少性の価値が高まるという。それは高度な能力を有する人材、希少資源や先端技術など、それを持つ者と持たない者の格差が広がっていくということだ。言い換えると、そんなものとは無縁の普通の人たちのこれからは大変なのである。これといった取り柄もなく、その上あと半世紀近く寿命があるわたしには、とても荷の重い話である。

専門的な記述、引用の多い取っ付きにくい経済書だけど、門外漢にとっても現代社会の枠組みを考えるための良書だと思う。そして自分や家族の将来の不安に対して、どう対処していいか分からない人にお薦めしたい。

2007年8月4日土曜日

「イントロデューシング」

 
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封建趣味的なことを言うと、わたしは「分際」という言葉が好きだ。子供は子供らしく、大人は大人らしくすべきであり、大人の世界に子供を引き入れたり、逆に子供の世界に大人が首を突っ込むということが嫌いである。とりわけ子供の趣味に大人が迎合することなど、大人社会に対する裏切りとすら感じる。何でもかんでも柔らかくなって、砂糖甘くなった近頃の料理と同じで、映画やドラマなども単調で歯ごたえのないものが多くなったの感じる。

翻って昭和の最後の10年間は日本のテレビドラマの歴史の中で、もっとも豊かな時代ではなかっただろうか。昭和の文化が爛熟し、大俳優や名女優が最後の光を放った時期である。そして忘れられないのが、向田邦子の「阿修羅のごとく」だ。登場人物のキャラクターが深々と彫り込まれ、様々な色合いを持つエゴがぶつかり合う大人の世界を描く味わい深いドラマだった。そしてわたしにとって、それが向田作品に親しむきっかけに、更に昭和30年代の日本映画にのめり込む契機になったのである。

このミリー・ヴァーノンのCDは、向田邦子の幻の愛聴盤だったことで知られ、向田ファンとしていつか聴いてみたいと思いながら、長年その機会もなくすっかり諦めていたものだ。ところが最近になって、先日のジャッキー&ロイのアルバムとともに再発売となり、それを知ったファンたちが買いに走ってちょっとした話題になったのである。わたしがそれに気づいたときにはすでに在庫も後わずか。慌ててAmazonから貴重な残りを取り寄せたのは言うまでもない。そしてミリー・ヴァーノンを聴き終わり、なぜかやり残した宿題を、やっと終えたような気になったのである。

さて、このミリー・ヴァーノン、歌唱力はまあ及第点という程度だが、向田邦子の愛聴盤というだけに、確かに魅力あるボーカルだ。それは何かというと、大人の愛嬌なのである。決して大作とは言えないが、ミリー・ヴァーノンの普段着をまとったような精神の軽やかさが心地よく感じられるアルバムだ。向田邦子は水ようかんを楽しむ際の音楽と言ったが、蕎麦でも白玉ぜんざいにでもよく合う音楽。押し付けがましくなく、さっぱりとした緑茶のようなボーカルとでも言えようか。

向田邦子が不慮の死を遂げて、はや26年目の夏である。