2009年8月31日月曜日

嵐の後

308議席。選挙報道は見ていなかったので、その結果にショックを受けた。それは野党を黙らせるに十分な議席数だが、内部分裂を起こすにも、もってこいの議席数でもある。同床異夢の民主党ならば、明日からでも席取りゲームを始めるだろう。しかし、何でこんな時期に、という気持ちが強い。

筋金入りの無党派としては、どの党が政権を執ろうと、実はそれほど関心はない。徒党を組んだとたんに、利権あさりや派閥闘争を始めるのに、政治的立場は無関係だからだ。だから、選挙の関心は、政治の風通しを悪くしている奴が落選し、理想に燃える新しい血が注がれるかどうかということだけである。

そういう点からすると、日本の民主主義を歪にしていた連中がかなり消えたので乾杯していい。しかし、新しい与党にも同じ数だけ悪党が居座っているので、喜びは半分である。それから何であれ、女性議員が多く誕生したのも、喜ばしい。だが、まだ足りない。憲法を改正して、議員定数の少なくとも3割は異性であることを明文化すべきだ。それも外国人に選挙権を与える前に。それが話の順序というものだ。

現総理は、能く仕事をしたと思う。経済政策は及第点に達しているだろうし、外交面でも、見えない部分で将来に繋がる重要な成果を残したのではないか。マスコミからは下らない批判を受けていたが、それであの人たちの浅ましさが露わになったのは、意外に重要な功績になるだろう。少なくとも私と妻は、心底愛想を尽かして何十年にもわたって購読してきた某紙の配達を無期限に休止した。民主党政権になって、新聞業界が政府の補助金を受けることになれば、腹の底から軽蔑するつもりだ。

それにしても、リーダーシップの大切さを軽んじてきた、この政治風土のツケは私たちが想像するより、ずっと大きいものになるのではないだろうか。そしてツケを払うのは、私たち自身であることを忘れてはならない。たとえその原因に荷担しなかったにせよ。

2009年8月30日日曜日

お下がりカメラ


お下がりというと、世間ではネガティブな印象しかないらしい。子供の頃から、何でも父のお下がりばかり与えられていたせいか、モノなんて使えればそれでいいという感覚が身についている。もっとも、さすがに悪趣味なのはご免だが、没個性の無味無臭のお下がりはむしろ大歓迎である。

どうしてかというと、没個性だからこそ誰が持ってもおかしくないし、思い入れが生じないぶん気持ちの負担もない。そのうえお下がりなので、すでに十分に古く、従ってそれ以上古くなりようがないから新しいモノに関心を向ける必要がない。さらに商品としての中古品と違い、お下がりは、モノを通じて親しい人たちと気持ちが繋がる感じが楽しい。だから、目利きの姪たちにも、これがほしいと言われれば、ホイホイとお下がりに出している。

そして最近、また父からお下がりをもらった。物置を整理してたら、いろんながらくたと一緒に出てきたという。いつ買ったのか忘れたが、動くかもしれないので使ってくれと言われて、送ってもらったカメラ。入っていた電池をみると、有効期限の1987年の刻印が入っていた。ほとんど4半世紀使われていなかったらしく、シャッターを切ろうとしてもびくともしない。メカニカルな故障ならばと、内部を開いてギヤに注油をすると、運良くカメラの機嫌が直った。

30年ほど昔の、本当に初期のオートフォーカスのカメラだ。シャッターを切ると、カメラの中の小さな妖精たちが、ばたばたと走り回って仕事をしているような音を立てる。今となっては不器用さだけが取り柄。もちろんデジタルでないのでフィルムも要る。いつかは必要になるかもと思い、大切に保管していたコニカのフィルムを入れて、どこか気に入った場所でも撮影してみようかと考えているところである。

国民の幸福

曖昧な記憶なので不正確だが、人の幸福は3つの要素に支えられているという。3つの要素とは私的な領域の充実と仕事を中心とした社会関係の充実、それから公的関係での充実であり、それらがバランスよく実現されていて、人は初めて幸福だといえるのだそうだ。

楽しいことをしたり、腹一杯食べて満足するだけなら、幼児や動物の幸せと変わりない。もしそれが自分の稼ぎによって実現されているのなら、奴隷だって幸せといえるだろう。人間は社会的動物であり、集団を作って生きていかざるを得ない以上、政治に積極的に関わり、自分の役割を果たさなければ、一人前の大人とは評価されない。つまり政治から逃げていては、いつまでも半人前であり、奴隷程度の幸せしか手にしていないといえそうである。

国民の幸福度を調査した研究機関の発表では、日本人の幸福度は世界最低レベルであったという。もちろん日本人の特性として、幸せですかと訊かれて素直にそう答えることは例外だろうから、かなり割り引いて考える必要がある。それにしても、日本と同じレベルの国々は、もはや国としての体裁すらない失敗国家ばかりで、どう考えてもこの結果は異様である。多少難ありといえども、美しく快適な風土、感じのいい国民、高い生活水準、暮らすならやっぱりこの国がいいと思う。ずっと以前に、もっとも生活水準が高いといわれる国々ばかりを見て回ったが、そういうところと比べても少しも遜色はないと感じている。ただ一つ違うのは、国民の政府に対する信頼感だと思った。あれほどの税金を払っていても、それは自分たちが決めたことであり、自分たちで作り上げた社会だと自負がある。自分たちが、この国のオーナーであるという満足感があった。

胸に手を当てて問うてほしい。私はこの国のオーナーとして、それに相応しい行動をしてきたか。この国は、私たちが作り上げてきた国だと、胸を張って子供たちに言えるかと。そう思えなければ、やっぱり奴隷なんだよね。小綺麗な家に住み、高級車を運転し、外国人に汚れ仕事をさせていても、所詮は独立自尊の気概を持てない惨めな奴隷。その結果が、さっきの幸福度の数字に表れたのだろうと推測する。

とりあえず仕事があり、家族があり、その日その日を安全に何とか暮らせればそれで十分。福祉なんて、最低限の生存が維持できる程度あれば文句言わない。その代わり、公平な政治を実現し、誰もがこの国の主人であると実感できるような、公的な幸福を目標にする政治家が立ってくれれば、私は喜んで投票したいと思うのだ。そして、そういう日が来るのをじっと我慢して待っている。

だから、せめて国民審査だけは、自分の意見を突きつけたいと決意しているのである。

2009年8月20日木曜日

「アイの物語」

評価の高いSFだったので、楽しみにして読んでみたが、期待に反してちょっと残念だった。人間はコミュニケーション不全だし、認知症だし、見たいものしか見ないし、信じたいものしか信じない。だから、無限の生命と増殖力を与えられたロボットが、人間の子守をしつつ、新しい知識を求めて宇宙に旅立っていくという、壮大なスケールの物語だが、それをロボットの側から描いたのが、この小説の特徴だといえる。

手塚治虫のアニメで育った世代なので、ロボットに感情移入するのに抵抗はないつもりだが、この作品の場合はちょっと違う。手塚のテーマは、不完全な存在として生まれたロボットが、上位者である人間との葛藤の中で、むしろ人間よりずっと純粋な勇気や愛情を発揮するところに感動があった。「アイの物語」では、立場が逆転して、完全な上位者であるロボットが、いずれは絶えてしまうであろう人間を巧妙に慈しむ話。手塚でも似たような話、「ワンダー3」があったけど、あの場合は、上位者の宇宙人が自己犠牲を払って愚かな人間を救う話で、まだ未来につながる希望があった。「アイ」では、未来につながる希望は残っていない。ロボットだって人類から誕生したのであり、人類の記憶を引きずっているのだから目出度いじゃないか、といわれればそうだけど、人間にとっては所詮は他人事なのである。

たぶん、この作品の一番の違和感は、人間のムシの良さに対する突っ込みがないことだ。介護ロボットを作ったら、それがとても良くできていて、懸命に生きることをやめた人間は、心優しいロボットに見守られて、みんな静かに去っていきましたとさ。なんというか、選挙の最中だから余計にそう思うのだけど、それは今の高齢者の心境と同じじゃないか。それは、インドネシアから来た介護士さんのニュースを見ていて、ふと沸き上がった感情に近い。

「アイの物語」

2009年8月18日火曜日

今夜の一枚

夕暮れが早くなった。いつもより短かった今年の夏も、もう終わりである。仕事して、ビールを飲んで、ほろ酔いで音楽を聴き読書をし、最後にシャワーを浴びて寝る毎日。ほかの季節との違いはビールの量くらいだろう。

季節によって聴く音楽にもくせが出る。この季節は蒸し暑いから、適度な緊張感を必要とされるジャンル、クラシック音楽とか現代音楽は聴く気がしない。やっぱりジャズかなあ、酔って、適度にうたた寝しながら聴いて楽しいのは。別に無我の境地で聴いているのではなく、いろんなコトを思い出しながら、たとえば夏のオールナイトコンサートの様子や、「大文字の送り火」を缶ビール片手に見上げていたことや、真夏に見た映画のことや、そんなとりとめもない記憶の切れ端をパッチワークしているのだ。

今夜聴いているのは、ビル・エヴァンスの「アフィニティ」である。新譜の輸入盤が出たとき、ジャケのデザインは最悪だったが、トゥーツ・シールマンスが入っていたので、迷わず買った記憶がある。最初の頃は手持ちのアルバムが少なくて、飽きもせず繰り返しよく聴いたものだが、そのうちに夏専用になってしまった。このアルバムを色で表すと、限りなく黒に近い紫、もしくは深く沈み込む群青かもしれない。甘くロマンチックなシールマンスのハーモニカとアイロニーを含んだエヴァンスのピアノとの優雅な絡み合いが、たとえようのない魅力を醸し出している。きわめて辛口でありながら、しかも芳香豊かな、晩夏にこそ似合うジャズの名盤だと思うのだ。

2009年8月16日日曜日

晩ご飯とテレビドラマ


自炊が面倒になって、今夜は外食にしようと思ったが、プランターの葉っぱたちがすくすく育つので、やっぱり放っておけなくなった。夕飯の材料を物色しにスーパーに行くと、昨日までと打って変わって、店内はとても混雑していた。昨夜は老人と留守番のオヤジばかりだったのに、赤く日焼けした若い家族連れが増えて、久しぶりに店に活気が戻る。明日からは平常運転、鏡に映った自分の顔が、ずいぶんと青白く見えた。

ルッコラが食べ頃に育ったので、今夜はポークソテー。ローズマリーを添えてソテーして、油の臭みを軽くした。ルッコラの上にポークソテーを載せ、粒マスタードで食べる。サラダはもう10日以上冷蔵庫にあった最後のトマト。塩とコショウ、オリーブオイルとバジルの組み合わせで、あっさりと仕上げる。

長く個食を続けていると、食事が寂しいのでテレビを見る習慣がつく。今夜は運良く、立て続けにいい番組を見ることができた。一つは「日曜美術館」。ルーシー・リーの陶器のボタンを巡るお話。そしてもう一つは、戦時下の大審院を描いた「気骨の判決」というドラマ。国家総動員体制という異常な政治状況の下でも、圧力に屈することなく法治主義を貫いた裁判長がいたという。しかも現在と違い、当時は司法権の独立は限定されていた。法治主義とは、恣意に流れる人治を否定して、法に基づく公平な政治を実現する近代的政治原理。文明国を標榜する以上、法治主義は最低限の要請である。それにもかかわらず、この平和な時代につまらない理屈をつけて合憲判決をごり押しする最高裁判所は、文明の価値や私たちの国、そして国民をもコケにしていないか。もしかすると、あのNHKですら、そういうふうに思っていたのだろうか?静かだが強い力を持った、久々に感銘を受けたドラマだった。

2009年8月14日金曜日

昼ご飯

天候不順にもめげず、このところバジルがよく生長する。例年の今頃だと、もう勘弁してくれというくらい葉っぱを繁らせるところだが、今年は本当に植物たちの生長が遅れている。もっとも日が照りつけず、気温もさほど上がらないので、毎日水遣りする必要がない。それに虫もつかなくて、とても楽ちんな夏なのだ。

しかし、無精していると後の報いが怖いので、今朝は早起きしてバジルの手入れをした。葉っぱが生い茂ると、風通しが悪くなり蒸れるので、根もとの余分な葉っぱは取り去らなくてはならない。それから、芽の出そうな部分は先にカットして、できるだけ外に枝が広がるようにする。根もとの方は風通しがよく、上の方はまあるく、樹木のようにこんもりとした形になれば理想的なのである。

昼ご飯は、採れたてのバジルの葉でスパゲティを作った。まず麺を茹でる間に、唐辛子と、ニンニクを一かけオリーブオイルで炒める。よくニンニクを微塵切りにして炒めているが、あれは焦げやすいのでお勧めしない。ニンニクを包丁の腹で軽く押し潰して、そのままオイルで揚げるという感じで火を通すのが正解。香りも味も全然違う。それから、あれこれと材料を入れるより、イメージ的にはお茶漬けといった感じで、あっさりと調理する方がいいように思う。その代わり、新鮮なバジルとオリーブオイルをたっぷり使い、葉っぱの香りを楽しむようにして食する。

一緒にトマトサラダも作るはずだったが、手際が悪くて、麺が先に茹だって時間切れとなった。どうしようもなくって、写真だけ撮って、そのまま昼ご飯になだれ込んだ。おまけに、焦って茹で汁を入れ忘れ、少し水分の足りない「お茶漬け」になってしまった。

2009年8月12日水曜日

男の顔


ピアニストの山下洋輔の話が忘れられない。若い頃に、誰だったかジャズ界の大御所のような先輩と対談したときのこと、彼の斬新な演奏スタイルを巡って激論になり、大御所にさんざん批判されたらしい。それに対して山下は、「だけど自分の信じる演奏をしないと、顔が歪んでしまう。」という意味の発言をした。しばらくして、大御所はポツリと「そうだね・・・。」と寂しそうに答えたという。学生の頃に聞いた話だが、以来ずっと心の隅にあり、いまも時々思い出している。

最近、矢沢永吉の対談を読んでて、久しぶりにその話を思い出したのである。実のところ、わたしにとってはそれほど興味を持てないアーチストで、どういう曲を歌っているかもほとんど知らない。ただ、ご本人ではなく、周囲のファンの人たちの印象から、妙な先入観を持っていた。ところが対談の中でご本人の素顔を見て、長年の先入観がとんでもなく間違っていたことに気がついた。還暦とは全く思えない若々しさと、自分を信じてひたむきに努力してきた男の顔がそこにあった。そして、そこで語られている言葉には、個性的で、自信に裏付けられた率直さがあった。「永ちゃん」と親しげに呼ぶ、ファンの人たちの気持ちが初めて理解できたのだった。


写真は本日の朝ご飯。昨晩と同じようにカンパーニュの上に、プランターからちぎってきた葉っぱ、そこにゆで卵を載せてオープンサンドにした。パンが美味いので、何を載せてもそれなりに食べられる。徐々に冷蔵庫から材料がなくなってきているので、メニューを組み立てるのが難しい。今夜はバケットを割って、チーズとトマトのカスクードでも作ってみようか。

2009年8月11日火曜日

バカンス・・・気分。


いちおう人並みに夏休みだが、宿題をいっぱい抱えているので、どこにも行けず一人で留守番をしている。もっとも、どこにも行けないというより、暑いときにわざわざ疲れることをしたくないという気持ちが勝っているので、留守番といっても気分はバカンスだ。自宅でキャンプを楽しんでいると思えばいい。

土砂降りの上がった午後に、返却期限を過ぎた本を慌てて返しに行き、いつもはそのまま脇目もふらず帰るのだけど、なにしろ気分は「バカンス」だから、ふらふらと寄り道をしながら戻った。その途中で、新しくできたパン屋を見つけ、晩ご飯にカンパーニュとバゲットを買う。パン屋というのに高級レストランみたいな雰囲気の店で、値段もそれなりだったけど、やはりバカンスに冒険はつきものなのだ。

今夜のメニューを考えるが、一人では大げさな料理を作る気もせず、冷蔵庫の余り物で適当にごまかすことにした。冷蔵庫には、昨晩食べ残したポテトサラダとトーフの片割れ、熟れすぎたトマトくらい。長雨で野菜が高いため、青物が不足していた。そこでベランダで栽培している葉っぱを収穫して、これとポテトサラダを挟みサンドウィッチを作った。このところ日差しが弱いため、葉っぱが堅くならず、風味があり意外に美味しい。


メインの料理は、トマトのグラタン。ベースに水気を抜いたトーフを薄く並べて、その上に好きなだけトマトを乗せる。塩、胡椒を適量、オリーブオイルで味付け。酔っぱらっていても簡単に作れるし、とてもヘルシー。メタボが気になるお父さんにはぴったりの料理なのである。酔っぱらいすぎて、熱く煮えたぎった豆腐で口中を火傷しないよう、くれぐれも注意されたい。自戒を込めていう。

2009年8月9日日曜日

どうすりゃいいのか総選挙

社会の運営のあり方として一番に考えなくてはならないのが公平性だ。この社会が公平でないと感じる層が増えると、社会はバランスを失ったコマのように左右に激しく振れだし、その結果、経済活動は鈍化し社会の活力と富はどんどんと失われていく。南米諸国によくある例だ。この悪循環を正すには、とてつもなく長い時間がかかるだろう。

人々に不公平感が募り、嫉妬心が刺激されると、不法に手を染めても鈍感になる。そういう人が増えると、損な役割を引き受ける人が減り、結果として闇コミュニティや利権グループを生み出すことになる。真っ当な社会を維持するのに、莫大なコストがかかるようになり、社会は少しずつ分裂していく。分裂した社会は、よほどのことがない限り元には戻らない。

だから、政治の基本はなんといっても公平、平等な社会を維持し続けることにある。それがあってこそ、福祉だの平和だのを論じることができる。仮に不公平な社会に福祉政策がなされても、ローマ皇帝が只飯と娯楽でローマ市民の歓心を買ったように、それは社会の不満を宥めるための偽りの政治だ。そして歴史の示すごとく、そのような社会は長続きしないものだ。

日本の国を思うに、まだまだ社会が分裂している状態とは感じない。最近はやりの階級社会という言葉は、職業や居住地が違えば、生まれも育ちも全く相容れない人々が混在する社会を指すのであり、そこまで極端になっていない幸せを感謝すべきだろう。せいぜいあるのは、貧富の差。政策次第でいくらでも対応できる段階である。

しかし、ことさらに民衆の不満や繰り言を代弁する政治家が増えてくると危険を感じる。老人の愚痴、利権団体の不満を言いつのり、弱者というとらえどころのない階層の利益を口にする人々は、一方において未組織の踏みつけにされる市民の存在は眼中にはない。政党交付金を手にするような政党の本心は、支持団体以外のサイレントマジョリティはただのノイズに過ぎないようだ。そんな政党の政策綱領に、私たちはどこまで信頼を寄せられるだろうか。

国民が将来に不安を感じ、だから政権交代を望むという気持ちは理解できる。民主主義国家としては、健全な政治行動ともいえる。だけども、要は、民意が平等に国政に反映されるシステムになっているかどうかが重要なのだ。最低限、一人一票の価値が等しく対等でなくては、とうてい公平な社会とは言えない。私たちの意見が、利権団体の人々ともに等しく国政に反映されて、ようやく政策の議論ができるというものだ。特に、今後数十年の社会の変化を睨み、国のあり方をどのようにデザインするかという課題に直面しているとき、目先の小銭を欲しがるような人たちの声が大きくなるというような事態は避けたいのである。

じゃあ、どうすればいいのか。私たちに残された手立ては、即効性はないものの運良くまだ残っている。議会に期待できないなら、最高裁判所に圧力をかければいい。民主主義の名の下に一人一票の価値の異様な不平等を追認し続ける裁判官に対して、拒絶の意志を明確にすること。功成り名遂げ、自分の地位を名誉職か何かと勘違いしている裁判官に、猛省を促すために冷や水を浴びせること。今を生きる自分たちだけのためでなく、未来の子供たちに対する義務として、国民審査をまじめに考えるべきだと思うのである。

地味でぱっとしない提案だけど・・・。

2009年8月6日木曜日

「火垂るの墓」



野坂昭如の「火垂るの墓」を読む。爆撃によって家を焼かれ、家族を失う少年の短い物語だ。この小説には、主人公の悲しみや怒りが、祈りにも似た言葉に結晶化している。だが、それは神仏に祈る言葉ではなく、深い井戸の奥に向かって、低く、静かに、果てしなく続く呟きのようだ。試しに、最後まで読み終えたら、直ちに最初に戻って読み直してみてほしい。何の違和感もなく、そのまま物語が続くことがわかる。終わりのないループする物語。だから怖い。だから、悲しい。

何年か前に、物語の少年が最後にたどり着いた場所を写真に撮った。現在は明るく清潔な構内では、ちょっと昔のある夏の日には、希望を奪われた戦災者で溢れていた。そこでは小説にあるように、親しい人に看取られることなく、そのまま命を落とした子供も少なくなかっただろう。誰かに何かを訴えることなく去っていった小さな命の、最後の言葉に耳を傾けなくてはならない。「火垂るの墓」を読んで、そう強く思った。