2007年4月29日日曜日

連休初日


午前中は網戸の補修と清掃をする。そして、そのまま勢いをつけて、窓の掃除も片付ける。窓を通して見る明るい木々の緑は、何かいいことを予感させるように眩しく光っていた。

昼からは読書。今日が返却期日なので、時間に間に合わせるため思い切り斜め読みをする。バブル崩壊からホリエモン騒動にいたる、数々の金融スキャンダルと検察の活動記録。とてもいい本なのに、時間をかけて読めないのが残念だ。忘れてはいけないことを、きちんと覚えておくことが重要なんだ。

その後図書館に駆け込んで、その帰る道すがら、鯛焼き屋でおやつを調達する。急いで家に戻り、まな板に鯛を並べて蒸気を抜く。小市民は、鯛焼き8尾で幸せを感じる。

2007年4月27日金曜日

連休の予定

今年は運良く10日間の連休となった。本来ならば、どこか遠くに出かけたいところだが、行った先の混雑を想像すると、その気も失せる。まあこんな時だからこそ、普段しようと思ってついつい先延ばしにしていたことを、さくさくと片付けてしまうのもいいだろう。

ペンキ塗り、ラジオの修理、網戸の張り替え、いつの間にか増えてしまった食器類のダイエット、最近調子の悪いPHランプの持ち込み修理。全部できたら、お気に入りの蕎麦屋で酒を飲んでよし、としたい。

仕事関係の本は敢えて読まずに、この10日間は娯楽に徹する。そこで、ずっと積ん読状態になっているミステリー小説を片付ける。スウェーデンの誇る警察サスペンス、マルティン・ベック・シリーズである。高校生の時「笑う警官」を読んでからずっと気になっていた続編に、今回こそは決着をつけるつもり。できれば緑の深い公園で、寝っ転がって読書できれば、言うことなしの最高の贅沢。

2007年4月21日土曜日

消耗品


馴れ親しんだテープレコーダーが相次いでダウンしてしまった。これまで何度も修理しながら使い続けていたが、都内のサービスセンターは閉鎖になり、もはやこれまでという状態になった。

そう、これは潮時なのだ。アナログに固執するのは、もう時代遅れ。そう悟って、ようやくICレコーダーに乗り換えた。小さく、軽く、申し分のない性能。これだけで100時間以上も、余裕を持って録音できる。おまけに拍子抜けするほど安価だ。

しかし、いかにも消耗品という雰囲気が引っかかる。「たかが電器製品なんだから、もっとドライに付き合ってよ。」と言われているみたいだ。一部の隙もない、きわめて有能なビジネスマンのような商品。その遊びや潤いのないデザインが、商品の付加価値を小さくしているという事実に気づいて欲しい。

2007年4月18日水曜日

花びら


黄色に引き続き、赤のチューリップが咲いた。しかし天候が悪いせいか、成長がはかばかしくない。ようやく開いたと思った3つめのチューリップは、強い雨風を受けて数日で散ってしまった。

色はとても綺麗なのに、固く捻じ曲がった花びらたち。散ってもなお、強い香りが鼻を突く。じっと見つめてると、命の凄みが伝わってくるようだ。

2007年4月16日月曜日

こどもの遊び


NHKアーカイブス見てたら、ゴム跳びをして遊ぶ子供の様子が映っていた。そういえば女の子たち、スカートを内側にたくし込んで夢中になってやってたね。どんなルールだったの、と妻に聞くと、うーんと言ったまますっかり忘れ去っている模様。覚えてるのはゴム跳びが大得意で、いつも最後まで跳んでいたんだそうな。

男の子はやっぱりドッジボールだね。ボクはボールに捻りをつけて投げるのが上手で、気の強い子がそれを受けることができなくて、顔を真っ赤にして悔しがってたものさ。それに真冬なんかになると、ボールが素肌に直接当たるとすごく痛いんだよね。

そんなことをとりとめもなく話してて、ふと気がついた。あれほど楽しかったのに、最後にドッジボールした日のこと、最後にゴム跳びした日のこと、どちらも全然覚えていない。すっかり飽きてしまって、友達に嫌々つきあってたのだろうか、それとも塾や課外活動が増えていって、いつの間にか忘れてしまったのだろうか・・・。

どんなに愉快なパーティーでも、必ず終わりはやってくる。だから、今を楽しみなさい。

2007年4月15日日曜日

日本民藝館


散歩がてら日本民藝館に立ち寄る。江戸時代を中心とする幟旗のコレクションを鑑賞するが、どれも生き生きとした活力に溢れたものばかり。見る前は素朴で庶民的な意匠を想像していたが、実際はずっと洗練されたものが多く、なかには伊藤若冲を髣髴とさせる幟旗もある。江戸時代の文化遺産の豊穣さ、とくに庶民の美意識の高さは、世界的に見ても突出しているように感じる。


ちょうど旧前田侯爵邸の開放日でもあったので、興味半分で覗いてみたが、こちらは想像してたとおりの退屈な建物。当時は日本屈指の洋館だったということだが、住居にしては温かみがなく、どこか虚ろな雰囲気を漂わせている。その直前に見学した旧柳宗悦邸の、細部にまで神経の行き届いた住居とは好対照だった。

しょうゆ差し問題


液だれしないしょうゆ差し、なんて幻想。そうでなければ、液だれしないことが製品のキャッチになるわけがない。今までさんざん、あれこれと買い換えてきたが、思うようなものに出会ったことがないのだ。

このあいだも料理をしている最中にしょうゆを注ごうとしたら、注ぎ口が詰まっていて、手順の腰を折られたような気がした。いつものことなのでそれなりの対処をするのだが、そのたびに小さなストレスを感じるのは事実。そして今度こそはと考えた挙句の結論が、これまでの習慣を変えるということだった。

要は、液だれとか詰まりとかは、前回使い終わった後、少量残ったしょうゆが乾いて流れを悪くすることが原因になっている。だったら毎日、しょうゆを使うたびに注ぎ口を洗えば問題は解決する。だけども注ぎ口を洗って乾かす間、蓋を失った容器が乾燥するので、これに変わる何かで蓋をする必要がある。と、注ぎ口のサイズを観察するとこれがペットボトルと、まったく同じことが判明した。

そこで、毎日の食事が終われば、しょうゆの注ぎ口を取り外して洗って乾かす。その間は、いらないペットボトルの蓋で栓をする。翌日、料理で使う出番が来れば、そこで初めてしょうゆ注ぎに蓋を付け替える。そうすれば、液だれや詰まりとは無縁で、気分のいい毎日を遅れるというわけだ。しょうゆ差しの本体はMUJI、替え蓋は適当なものを選んで使う。非常に単純な解決法だが、この一ヶ月続けて、料理中のイライラが消えてご機嫌なのである

2007年4月12日木曜日

博物館へ


東京国立博物館に行った。お目当てはもちろんダ・ヴィンチの「受胎告知」。以前にも旅先で見たのだけど、そのときは多くの人類の至宝とも言うべき作品群に圧倒されて、疲れきってしまっていた。だから今回は満を持してのリターンマッチになる。

だけど、やっぱりピンとこない。たとえると、色も香りも美味そうな料理を出してもらったのに、どうやって食事すればいいのか分からず考え込むという状態。スコープを使ってディテールを鑑賞し、その部分の素晴らしさは確認できるのだが、改めて全体を見渡すと、途端に印象が薄れていくのだ。

それはわたしにとって、これまでにも何点か見てきたダビンチの作品に共通の特徴だった。気に入った作品だったら、画面からリズムやメロディー、感情、温度といったものが伝わり、何時間でも眺めていたいと思う。だけどダ・ヴィンチの作品は、いつだって曖昧で捉えどころがなく、そして楽しめない。

優れた絵画かどうかの判断基準のひとつとして、その情報量の多さが挙げられるが、「受胎告知」はその点では間違いなく最高のものなんだろう。しかし情報量があまりに膨大で、それが自分の処理能力を超えてしまっているのかもしれない。それともダ・ヴィンチは絵画という形式を使って、世界や空間の秩序といった、わたしが受け取ろうとするものとは別のものを表現しているのではないのか。ガブリエルの翼の精緻を極めた描写とは対照的に、実体のない影のような目、意思を失っているような唇を見ていて、そんなとりとめもない妄想が浮かんでくるのである。


「受胎告知」のあとは、もっぱら平常展を観て回ったが、これは思いがけず儲けものだった。「鳥獣人物戯画巻」に庶民の息遣いを楽しく想い、「青磁茶碗 銘 馬蝗絆」に時代を突き抜けた永遠の美を感じる。わたしにとっては、係員に急き立てられながら人類の至宝を鑑賞するより、じっくりと好きなだけ小品を堪能するほうがずっといい。そんなことを再確認した展覧会だった。

2007年4月9日月曜日

Podcast


去年の秋に植えたチューリップが花を咲かせたが、なぜか茎が伸びないのでクロッカスもどきになってしまった。香りが強くて、鼻を近づけると咽そうになる。

最近、ちょっとマイブームになってるのがPodcastだ。なかでもOTTAVAで配信している、クラシックの音楽ファイルがお気に入りなのだ。クラシック音楽はつまみ食いがしにくいので、どうしても気分的にゆとりのあるときしか聞けない。でも仕事の合間なんかに、心理的に周囲からひきこもりたいときにこそ、簡単にクラシックを楽しみたいものなのである。そういうニーズに、見事に当てはまるのが、このOTTAVAのPodcast。ひとつの長さが30分ほどで、ハイライトシーンが手際よく編集されているので、どこで中断しても不満を覚えることもない。

ただ少し不満なのは、つまらないナレーションが挿入されていること。あれは単なる耳障り。

OTTAVA

2007年4月6日金曜日

ありそうでないもの


海外旅行した友人に貰ったお土産。ずっと以前、某航空会社の機内で使われていたカップとソーサーである。これが今のわたしの日常生活には、なくてはならないものになっている。

というのも、飲み方が下手なのか、机や新聞にカップの輪染みを付けてしまうことが多く、お茶の時間にはソーサーが必需品なのだ。しかし、書類や本が散らばった机上には、瀬戸物のソーサーを置くスペースがない。ところがこのプラスチックのソーサーだと、底面にゴムが貼り付けられているので、傾斜したものの上でも平気なのだ。それにペアのカップにも同様の滑り止めがついているので、本の上でも気にすることなく、カップが置けるというわけだ。

加えて、座席の簡易テーブルで邪魔にならないよう、ソーサーが長方形というのもポイントである。丸いソーサーは見た目は安定感があるが、スプーンや何やら、すぐに落っことしてしまうのだ。だけど長方形だと、そんなこともおきない。


ほんとうに安物のおもちゃのような代物だけど、こういうのって、売っているのを見た事ない。こんなふうにカラフルな色をつけて商品化すると、受けると思うのだけど。

2007年4月3日火曜日

散髪

理髪店は決して嫌いではないが、わたしにはあまり縁がない場所だ。中学生の頃は坊主頭で、父が自ら地球トンボ印の手動バリカンでわたしの頭を刈上げていた。その父も子供の頃は、ひどく切れ味の悪いバリカンで、戦死した祖父に散髪してもらってた。ところがバリカンが切れないせいで頭髪を挟み込み、短気な祖父はそれを引きちぎるようにして作業していたのだそうだ。むろん幼い父はあまりの痛さに堪えきれなくなるが、その度に祖父にバリカンのハンドルで頭を叩かれていたのだという。ずいぶんと乱暴な話だが、父はわたしの散髪の度に、そのエピソードを懐かしさを込めて語ったものだった。

その後、社会に出るまでは髪を伸ばしていたので、時折、近所の美容室で簡単にカットだけしてもらう程度でも十分だった。そして学校を卒業してから、ようやく理髪店通いをすることになったのだが、それも結婚までのほんの数年間だけである。わたしが最後に理髪店に行ったのは、挙式の1週間前、慌ただしく準備をすませた日曜の夕方のことだった。使い込まれ黒光りする木の椅子に腰掛け、白髪のいかにも職人といった風貌の理容師に散髪してもらいながら、頭の中のチェックシートに印を付け続けていたように思う。

その後はずっと、妻がはさみ一つで、わたしの髪を整えていてくれる。はじめのうちこそ、失敗して虎刈りになったりしていたものだが、器用な彼女はすぐにコツを飲み込んでしまった。わたしのほうも容姿には無頓着な性格なので、自分の髪なのに、すべて彼女に任せっきりでここまできてしまったのである。そして昨夜もまた、例によってバスルームで散髪をしてもらったのはいいが、思いのほか寒くて体が冷えきってしまったのだろう。滅多にないことだが、珍しく風邪を引いてしまったようだ。深夜の天気予報では、今週はしばらく冬並みの気温になるだろうと伝えていた。

2007年4月1日日曜日

サンクチュアリ


幹に手を触れると、荒い木肌は想像してたよりずっと温かい。木にしがみつくようにしてカメラを構えると、ずっとそうしていたいような安心感に満たされる。そして、そのままの姿勢で、梢の方に向かってシャッターを切った。


足元の柔らかな土の間からは、様々な種類の草木が芽吹いていた。日当りの悪い木陰には、今しがた開いたかのような瑞々しい双葉が、光を求めて懸命に背伸びをしている。日のあたる斜面に、名前を知らない白い花が開花して、まるで子供が笑っているように見えた。


薄く柔らかな緑の葉をつけているのは、ハナモクレンではなくて、たしかコブシの方だったような。いつもそれで混乱するが、きっと花にとってはどうでもいい問題なんだよね。