
東京国立博物館に行った。お目当てはもちろんダ・ヴィンチの「受胎告知」。以前にも旅先で見たのだけど、そのときは多くの人類の至宝とも言うべき作品群に圧倒されて、疲れきってしまっていた。だから今回は満を持してのリターンマッチになる。
だけど、やっぱりピンとこない。たとえると、色も香りも美味そうな料理を出してもらったのに、どうやって食事すればいいのか分からず考え込むという状態。スコープを使ってディテールを鑑賞し、その部分の素晴らしさは確認できるのだが、改めて全体を見渡すと、途端に印象が薄れていくのだ。
それはわたしにとって、これまでにも何点か見てきたダビンチの作品に共通の特徴だった。気に入った作品だったら、画面からリズムやメロディー、感情、温度といったものが伝わり、何時間でも眺めていたいと思う。だけどダ・ヴィンチの作品は、いつだって曖昧で捉えどころがなく、そして楽しめない。
優れた絵画かどうかの判断基準のひとつとして、その情報量の多さが挙げられるが、「受胎告知」はその点では間違いなく最高のものなんだろう。しかし情報量があまりに膨大で、それが自分の処理能力を超えてしまっているのかもしれない。それともダ・ヴィンチは絵画という形式を使って、世界や空間の秩序といった、わたしが受け取ろうとするものとは別のものを表現しているのではないのか。ガブリエルの翼の精緻を極めた描写とは対照的に、実体のない影のような目、意思を失っているような唇を見ていて、そんなとりとめもない妄想が浮かんでくるのである。

「受胎告知」のあとは、もっぱら平常展を観て回ったが、これは思いがけず儲けものだった。「鳥獣人物戯画巻」に庶民の息遣いを楽しく想い、
「青磁茶碗 銘 馬蝗絆」に時代を突き抜けた永遠の美を感じる。わたしにとっては、係員に急き立てられながら人類の至宝を鑑賞するより、じっくりと好きなだけ小品を堪能するほうがずっといい。そんなことを再確認した展覧会だった。